はじめに

  「貧しい人が増えた→不満を持つ人が増えた→生活保護受給者を不満のはけ口にした」
 だれが仕組んだのでしょう。2012年に吹き荒れた「生活保護バッシング」の嵐。こうした単純な構図だった、と筆者には思えます。そして、信じられないほどに、バッシングが現実の政策にも大きく影響しました。

 「事実と違う」「違いすぎる」
 筆者は、生活保護についてのマスコミ報道や政治・行政の動きを追っていて違和感を覚え続けています。生活保護問題は2013年に大きな転機がありました。受給者の日常生活費に当たる生活扶助費の段階的な削減が8月に始まり、12月には国会で生活保護法の一部改正が成立しました。生活保護をめぐる実情や問題点が正しく世間に広まり、その正しい対処法としての結果ならばいいでしょう。しかし、筆者にはまったくそのようには思えないのです。

 生活保護制度を変えねば、という世の中の「空気」は2012年春に急速に形成されました。高収入のお笑いタレントの母親が生活保護を受けていたことが暴露され、「生活保護を安易に受ける若者が増えた」「生活保護の不正受給が増えた」などと民放テレビが強調。生活保護を受けることが「後ろめたい」ことであるかのような報道ぶりが目立ちました。
  筆者は2001年秋から6年間ほど多重債務問題の取材に奔走しました。借金地獄でのたうち回って心身がぼろぼろになった人と数多く接しました。救いは、そうした人が生きていくために使える制度があったことです。主なものは、破産や任意整理などの法的な債務軽減策と生活保護制度です。この人もあの人も…。生活保護制度があったから生き延びられた、という人の顔が次々に浮かんできます。生活保護はまさに命綱なのです。「利用することが後ろめたい制度」といったトーンの報道に接するたびに、命綱であることをなぜしっかり説明しないのか、いらだちが募るばかりでした。

「生活保護を受けるのは恥」という意識が国民に定着している日本では、受給者は表に出て実情を説明することが困難です。そのため、真偽が確認されていないさまざまな俗説がネットなどで拡散されてしまっています。「不正受給が全体の何割かを占めている」「生活保護の受給者が急増して国の財政悪化が一段と進んできた」「生活保護の受給者は気楽に暮らしている」といったものです。
  非正規雇用の拡大などで、日本では貧困が拡大の一途をたどっています。生活保護受給者よりも切り詰めた暮らしをしている人が受給者の何倍もいるのが現実です。そのため、受給者に対して「おまえらはずるい」といった感情を持つ人が大変に多くなっています。民放テレビの「生活保護バッシング」の傾向が強い番組は、こうしたマイナスの感情や俗説を広めてしまったと思います。マスコミ全体としても、生活保護受給者の実情をていねいに説明して国民の誤解を解く努力は足りません。

 2012年12月の衆院選で自民党が大勝しました。自民党政権は2013年1月に生活扶助基準の大幅切り下げを決めました。このとき、厚生労働省が主な理由として挙げたのが物価の下落です。厚労省は、生活扶助費で買う品目についての物価指数(生活扶助相当CPI=生活扶助相当消費者物価指数)を独自に「開発」して計算しました。そして、2008年から2011年にかけて4.78%下落したと説明しました。筆者の違和感はこのとき頂点に達しました。
「その3年間で物価が5%近くも下がったはずがない」と。

 筆者は1986年8月から1年間、日本銀行の記者クラブにいました。日銀マンは経済指標を緻密に分析して金融政策を考えます。物価指数は重要な指標の一つでした。それ以降ずっと物価指数の動向には関心がありました。今まで蓄積してきた物価への感覚によって「約5%の下落率は絶対おかしい」という気持ちが湧き上がって抑えられないのです。
「約5%も物価が下がったら強烈なデフレであり、それに対応して金融・経済政策がまるで変わっていたはずだ」と。
  物価指数の計算の仕方から地道に学び直しました。やはり、「5%近い下落率は大間違いだ」と確信が持てました。厚労省は、日本政府がいつも使っている物価指数の算出法を使わなかったのです。筆者が通常の方式で算出してみると、2008年〜2011年の生活扶助相当CPIの下落率は2.26%でした。厚労省は、下落率が大きくなる算出法を勝手に採用して物価下落率を実際より大きかったことにし、生活扶助費を過大に削っているのです。

 

 今の安倍政権になってから社会保障を後退させる政策が次々に出てきました。
  第一弾が生活扶助基準切り下げです。その根拠がデタラメなのです。それは重大極まる問題です。この問題は国会でも厳しく追及されました。しかし、政府は間違いを認めません。マスコミの追及も「中日・東京新聞など一部マスコミが頑張った」という程度です。
  2014年に入ってから、生活扶助基準切り下げの行政処分の取り消しを求める裁判が佐賀県、埼玉県、熊本県などで始まりました。ついに、生活保護利用者が声をあげ始めたのです。しかし、裁判結果が出るまでには数年はかかりそうです。

 物価指数の話はむずかしくなりがちで、普通の国民には関心を持ってもらいにくいのが悩みです。そこで、自分自身で厚労省による物価偽装を追及する本を書こうと決意し、あけび書房代表の久保則之さんに相談しました。久保さんからは、「生活保護をめぐる数字のウソの数々、といった内容の本にして物価指数の話を織り込みましょう。格差拡大に密接に関係する問題なので、経済アナリストの森永卓郎さんに協力をお願いしましょう」と提案されました。
  生活保護をめぐる俗説は「不正受給が多い」「生活保護受給者の増加が目立つ」というように「多い」「目立つ」いった数字絡みの問題がほとんどです。それをただせる機会に恵まれるとはなんとうれしいことか。森永さんの話と合わせて絶好のチャンスです。

 生活扶助基準の切り下げは「弱い者いじめそのものだ」と感じてきました。手続きがあまりに強引です。厚労省は消費者物価指数の新しい算出法を採用しました。普通なら、消費者物価指数の本家である総務省統計局の意見を事前に聞くはずです。厚労省は、大胆にもそれを省略しました。物価指数に詳しい研究者の意見を集めて検討する作業もせず、社会保障審議会生活保護基準部会でも新しい物価指数のことは何も審議しませんでした。
  診療報酬をこういった感じの独断的な手続きで決めたと想像してみてください。医者や医師会が自民党の族議員に働きかけて厚労省は猛烈に攻撃されるでしょう。ところが一方、生活保護受給者は団結しづらく、ばらばらです。受給者を支援する団体の力もまだまだ弱い。比べてみれば、厚労省が生活保護受給者を軽く見て独断的な手続きですませた理由が理解できると思います。

「物価偽装」がとんでもない行為であることは、筆者の心を重苦しいものにしました。各省庁がいろいろな統計をまとめて、行政の運営に活用しています。統計は「こういう状況だから、こうした施策を進めるのです」と説明するときの材料なのです。生活保護についても、受給者や受給世帯に関するさまざま統計が作られています。それらを細かいところまでしっかり見ていけば、生活保護に関する誤解が解けたりします。
  官庁は、自分に都合がいい統計を強調して都合の悪い統計はあまり触れずにおく、といったことはよくやります。厚労省が生活扶助基準切り下げ問題でやったことは、比べようもないほど悪質です。「統計数字そのものの偽造」と言えるからです。生活保護基準は、憲法25条の「生存権」の大きさを政府が金額で示したものに見えます。その基準の改定の際に「偽装」とか「偽造」とか言われるような行為があったのです。

 筆者は、金の値打ちは貧しい人ほど大きいと考えています。例えば、月5000円収入が減るとしましょう。金持ちには「ああそうか」程度の話です。貧しい人には大打撃です。貧しい人の「不幸だ」という思いは大変強くなります。お金持ちからより多く税金を取り、低所得者層に分配していけば、低所得者層の方が圧倒的に多いので、社会全体の幸福感は大きくなります。しかし、そうはなりにくい今の社会構造です。筆者との対談で森永さんが分かりやすく説明してくれています。
  金持ちは、金にまつわる制度についてよく研究します。税理士やファイナンシャルプランナーなどの専門家から簡単にアドバイスも聞けます。自分たちに都合がよくなるように陳情や献金によって、政治にも働きかけます。
  貧しい側はどうでしょう。金がなく、時間の余裕も乏しいことが普通なので、金にまつわる制度の研究はまずしません。専門家のアドバイスを聞くための報酬も払えません。金がないので、政治にも働きかけできません。
  貧しい人が貧しい人をたたく「生活保護バッシング」をしている暇はありません。この本を読んでもらえば、分かっていただけるでしょう。

2014年9月                        白井 康彦