付け足し

 それから月は、大気圏突入に失敗していました。肝心なところでまた集中力が足りず、打ちどころ悪く記憶も飛んでしまい、ちぃちゃんのために地球に来ようとしていたことも忘れてしまいました。
 そして、どうにか着地した土地で、何が何だかわからず、世の中の普通や常識にもなじめず、悶々としてさまよいました。
 月はどんな仕事でも自分なりに精一杯がんばりましたが、集中力が続かず簡単にだまされ罵倒もされました。それなのに、そんなことでは涙の一滴すらも出ませんでした。天性の鈍感さに加え、地球で一つの命を生きて世界を知ることのできる驚きに圧倒されていたのかもしれません。

 それでも、とうとう月の体にも限界がやってきました。失業し、税金や保険料の督促状やら、公共料金値上げのお知らせが続けざまに届きました。支払いを済ませ無一文になり寒空の下に追い出された月は、残された時間で何が残せるか考えてみました。
 「伝えたいことがあるんだけど、どうやって表現したらいいんだろう? どうしたら届くんだろう? どうしたら…」
 しかし、思いとは裏腹に、月は帰らなければならない気がしてきました。
 「でもどこに帰るんだろう? もう帰る部屋もないのに」

 見上げると、遥か上空に美しい満月がありました。月の体はだんだん軽くなっていきました。いよいよ体が地面から離れそうになったとき、すっかり大人になったちぃちゃんが夜勤を抜け出して駆けつけてくれました。それが誰なのか、月はすぐに、込み上げるようにわかりました。ちぃちゃんは何かを持っていました。
 「お月さん、月に帰るん?」
 「そうみたいです、どうやら」
 「私も連れてってくれへん? 私、ここにおっても、苦しいことだらけやし、どうせ一人やし、あかん?」
 月は地面すれすれで、よろめきながらも決然として断りました。
 「ちぃちゃん、来たらあかんで」
 「それ、私が前に、お月さんに言うたな」
 「ちぃちゃん、月は本物の命が生き続けられるところではないんです。月には空気も水も花の一輪もありません。それに、月には悲しみもない代わり喜びもありません。悪事もない代わり正義もなく、音楽もドラマもドタバタもないんです」
 「それは、たまらんやろな。私、他はなくてもドタバタだけはあってほしいし」
 「地球も人間も不完全かもしれません。でも、不完全なものには、自由や成長を願い夢を実現していくことができます。それは、不完全という完全です。それは、楽園のお花畑を軽やかに舞い歌う天使には、できないことなんです。
 ちぃちゃん、どこかに楽園はあると思いますか?」
 「さあ、どうなんやろな?」
 「楽園は遠い時空の先にあるのかもしれません。だけど、この世界を生きてこそ楽園なんです。転んでばかりいた月が偉そうに言えませんが、生きて誰かのために自分にできる限りのことをすればいいんです。立派なことでなくてもいいんです。たとえ動けない痛い体になっても真っすぐ最後まで生き抜く姿だけでもいいんです。
 人には知られなくても小さな真っ当が積み重ねられるたび、そこに準楽園があるんです。
 生命の声は喜び、宇宙は秘かに呼応しています。ちぃちゃんは何となく感じていましたよね。一人ひとりの準楽園がつながり広がり行けば、そこに楽園があるでしょう。不完全だからこそ尊い楽園が。

 僕のねえちゃんがこんなことを言っていました。
 『人の子は皆、楽園からやって来ます。人の子は地球に生まれる前、月に立ち寄ります。
 月の女神(私じゃないですよ)は、人の子にそっと手をかざして楽園の記憶を消します。そうしないと、その子にとって現実世界はあまりに過酷になるから。しかし、月の女神は全能ではないので楽園の記憶は完全には消えません。地球に生きて自我が芽生え始めると、人は現実世界に苦痛を感じるようになります。それでも大人になるにつれ、世の中の矛盾や理不尽が多少気になっても、仕方ないことと自分を納得させます。自分が親になると、世の中がどれほど捩れていても、自分の子どもたちをそこに適応させようとします。
 ところが中には楽園とは知らずその強い郷愁に包まれる子がいます。その子は現実世界の愛の希薄に戸惑い敏感に反応します。大人になっても何度でも、正義の思いと反抗心が混ざり合って世の中の普通とぶつかります。ちぃちゃんもまた、その一人なのでしょう。
 しかし、真・善・美と呼ばれるものは、そんなところで少しずつ彫り起こされ、この世に姿を現して行きます。
 人は、人に愛されて人や世界を愛せる人になります。憎しみにさらされ続けると、自分を守るため人や社会を憎んでしまうことがあります。たいていの犯罪や争いもそこから発生します。けれど、憎しみの中にあってもなお人を世界を愛する心には平安が宿り、その思いと行動が愛ある世界を引き寄せるのです。 苦しみは止まないかもしれません。それでも、それぞれのあなたは尊い唯一の存在なんです。それと同時に、すべての存在は本来、時空を超え生死を越え天でつながっています。だから無意味な苦しみなんかないんです。
 蟻一匹が知る地球の地面ほどにも、人は宇宙のほんの少しのことしかわかっていません。なのに、どうして、天にあって地上の人を待つ真・善・美を否定できるでしょう。どうかなるべく、しなやかに生き抜いてくださいね』
 僕もまあだいたい同じです、ちぃちゃん。辛いときでも嬉しいことがあったときでも、気が向けば、天を見上げるか思い浮かべてください。きっと誰かも見上げています。ボォーとしてなかったら月だって。それにね、ちぃちゃん。ちぃちゃんの願いに似た点々と点る思いは、やがて静かに強く結ばれて行くかもしれませんよ」
 「お月さん、ありがとう。お月さんのひとりごと、私にはずーっと聞こえとったで。これ、一つ持って帰ってな。玉手箱とちゃうから途中で開けてもええからな」
 いたずらっぽく笑って、もう二言三言発しながら手を振るちぃちゃんの姿は、だんだん下方に小さくなっていきました。そこには『月から一石』と書いてありました。

 つきからいっせき…華のない変なタイトルに戸惑いながら、月は紡がれたことばを追ってみました。
 そこには人間の愚かさや苦渋とともに、そこならでは輝く小さな光明がありました。そこには月のありったけがありました。月にとってはありったけでも、何か余計で何か足りないような気もしました。月にはわからないその何かは人の頬をつたう涙や汗に託されているのでしょう。月はまた一つ、地球と人間がうらやましくなりました。何があってもいつまでも、一人ひとりの人間を信じていたいと思いました。そして、最後の行には次の文字たちがそっと並んでいました。

 すべてが愛を必要とする

(この作品はフィクションです。実在する人物、動物、星、国、団体などとは、あまり関係ありません。しかし、作品の根源的な問いは、そのすべてに大いに関係あります)